ジョグジャ伝説のソト屋「Warung Soto Kadipiro Asli」
伝説のソト!?
ジョグジャの 超老舗のソトアヤム屋さん。マリオボロ通りからも3キロ程度の程よい距離にある。市内に支店が何店舗かある模様だが、食べるなら本店ですね。
1921年オープンという独立前からジョグジャでソトを売っていたお店とのこと。昼下がりには、地元の人、観光客で一杯でした。
値段は割と高めで優しい味
ソト以外のメニューもあるけど、ほぼみんなソトを頼んでます。Kulit(皮)など鳥の部位も選べます。ソトはRp20,000程度。ジョグジャの相場を考えると少し高いけど、食べる価値あるかと。スープにご飯とキャベツなどが入っているジョグジャでよく食べられる形で提供されます。朝飯にちょうど良いかも。味も優しい味で2杯食べたくなりました。ジョグジャで観光の際には、是非一杯。
オススメ度:星7つ ★★★★★★★☆☆☆
住所:Kadipiro, Jl. Wates No.33, Sonosewu, Ngestiharjo, Kasihan, Bantul, Daerah Istimewa Yogyakarta
営業時間:毎日8am-14pm
アジア大会開会式:大統領バイクパフォーマンスとインドネシア政治の潮流
第18回アジア競技大会ジャカルタ・パレンバンが8月18日、ジャカルタのブンカルノ競技場での開会式で幕を開けました。
ぎりぎりまで開会式チケットが引き換えられなかったり、相変わらずの運営ではありましたが、開会式自体はかなりインドネシアの特色を出していて、内外から好評を得ています。その開会式で話題になっているジョコウィ大統領のバイクパフォーマンスを見て感じたことを中心に少々書きます。
サバンからメラウケまで
開会式のパフォーマンスは各島、各地域の文化を反映させた出し物が行われ、インドネシアの多様性を象徴するものになっています。
まさにインドネシアの多様性を象徴する「Dari Sabang sampai Merauke」(西端のアチェ州サバン島から東端のパプア州メラウケまで)という言葉を表すように、各地域の伝統的な舞踊や古い物語をもとにした芝居なども披露され、観る者をかなり楽しませてくれました。
以下の動画は、開会式の冒頭で疲労されたアチェの伝統的舞踊の「サマン(Saman)」です。
大統領がバイクで疾走!
そして、なんといっても今回目を引いたのがジョコウィ大統領がバイクに乗ってブンカルノ競技場まで入場(したようにみせた仕掛け)したことです!
Aksi Keren Presiden Joko Widodo Meriahkan Opening Ceremony Asian Games 2018 - YouTube
ジャカルタから60㌔弱の南にある西ジャワ州ボゴール市の大統領宮殿を出発するジョコウィ大統領。
大統領ご用達の警護に守られて出発
しかし市内はアジア大会で盛り上がる市民で大混雑。
すると警護車のバイクにすかさず乗り換え、渋滞もダイブでかわすジョコウィ大統領
でも、学校前の横断歩道では子どもの歩行優先
そしてブンカルノ競技場に到着して
競技場内をぐるりと走行
そして裏口にまわってからーの
参列席に到着!
この仕掛けについてはメディアなどにも事前に情報が漏れないように最新の注意が払われていたようで、事前に大統領がこういったパフォーマンスを行うとは全然情報として出ていませんでした。
アジア大会の事前説明で、クリエイティブ・ディレクターのウィシュヌタマさんは開会式には「サプライズ」がある、とかたくなに内容を詳細に明かさなかった。約3万8千人の来場者や取材に臨んだメディア関係者らはおそらくその狙い通り、オートバイで登場したジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領に度肝を抜かされた。(じゃかるた新聞2018年8月20日紙面)
大統領オートバイで登場 開会式 大自然と多様性が共存 | じゃかるた新聞
本当に大統領が乗車していたのか?
次の日の地元紙やネットメディアでは、ジョコウィ大統領のパフォーマンスに関する記事がかなり目立ちました。
このパフォーマンスはもちろん全てジョコウィ大統領がやったわけではないです。
その証拠にジョコウィ大統領の左手の指輪が、高速道路でバイクにまたがりヘルメットを被った瞬間になくなっているとの分析をしたネチズンも。
いや、よく探すはこういうの。
実はこのパフォーマンス、タイ人のスタントマンを使って、8月上旬に撮影されたとの情報も出ています。
なぜタイの人だったかは謎ですが、スタントマンのインスタが発見されてその写真の構図が今回のパフォーマンスと同じだったとかなんとか。
二輪車乗車がジョコウィ大統領のアイコン
実際にどこまで大統領が乗車していたのかは定かではないですが、ジョコウィ大統領は元々バイク好き(もっと言うとパンクロック好き)で有名です。
また同氏が政治家として、活躍を始めた中部ジャワ州ソロ市市長時代には、(バイクではないけど)自転車に乗って市内を散策しながら市民の声を聞く、庶民派市長として人気を博しました。
いわば二輪車にまたがることは、ジョコウィ大統領のアイコンでもあり、人気の秘訣といっても過言ではない側面があります。
今回の開会式でのパフォーマンスはジョコウィ大統領の人柄を表しつつ、「僕達(インドネシア)の大統領イカスだろ!」という意識を国民が持てるようにしたよく出来た仕掛けだったなぁと感心しました。
このパフォーマンスについては、日本の友人からも筆者宛に「大統領がバイクに乗って登場した!」というラインが来るように、視聴者には結構なインパクトを与えています。
これは国外へのパフォーマンスでのアピールという側面に加えて、国内の人気を取る、という意味でも少なくない意味を持っています。
来年は大統領選挙がありますが、インドネシアではつい最近に来年の大統領選挙への立候補者の締め切りが行われました。
このタイミングで開催されるアジア大会にはジョコウィ政権もかなり力を入れていて、なんとしても成功に導いて、政権の実行能力を示す一端にしたい意向です。
そのために、ずっとデコボコだったジャカルタの目抜き通りのスディルマン通りが急速な勢いで整備されていままでなかった歩道が出来たり、パレンバンではLRT(都市旅客鉄道)も完成しました。
若い国民に向けたイメージ戦略
インドネシアは政治と国民の距離が日本より、とても近いです。
そして、インドネシアの人口は日本の約2倍の約2億5千万人ですが平均年齢は29歳。
平均年齢約45歳の日本と比べるとダントツに若い世代が膨大な人口を締めています。
ジョコウィ大統領もインスタやYoutubeなどを活用していますが、これは日本とは訴えなければいけない層が全然違うことに由来しているからだと考えられます。
今日(2018年8月20日)現在で、ジョコウィ大統領のYoutubeチャンネル登録者数は58万6730人、インスタはなんと1109万人のフォロワーを誇ります!
反して、日本で安倍総理がYoutubeチャンネルを開設したりインスタでこまめに投稿したりしても若い世代で見る人はかなり限られるのではないでしょうか。
以下はジョコウィ大統領のYoutubeチャンネルで、子どもの質問に大統領が直接答えますコーナー。大統領が子どもの素朴な疑問に答えます。
中には漫画NARUTOについて大統領はどう思うか聞く子どももいます笑
このエピソードは252万回再生されており、人気ユーチューバーもびっくりの再生回数です。
上記の動画に見るように、子どもや若い世代に対してSNSを利用しながら、いい印象を与えることはもはやインドネシアの政治家には必須事項といえるでしょう。
2014年の大統領選や、昨年のジャカルタ州知事選でもFBなどのSNSが政治勢力にかなり使われ、そこでの情報がその後の選挙の流れを決めていたといっても過言ではないです。
今回のアジア大会のバイクパフォーマンスは、単に海外向けに庶民派大統領を紹介するという対外的なイメージ戦略だけでなく、国内的にも特に若い世代を中心にイカした大統領だとの認識を再度植えつけることで、大統領選への前哨戦であるイメージ戦略を有利に進めようとする意識がバシバシ感じられました。
バイクの映像はいたるところで流され、それを元に若い世代の国民が勝手に写真や動画を加工してSNS上にアップしています。
インドネシアで大人気の仮面ライダーのオープニング風に加工した映像。
ちなみに韓国のツイッター検索ランキングでジョコウィ大統領のバイクパフォーマンスが検索1位になったとかでもインドネシアで話題に。
こういった画像や動画が、大統領のイメージアップに貢献してくれる。
まんまと大統領府やジョコウィ陣営の策略どおりの流れが、開会式後の数日は起きていたーーーそんな事を勝手に考えていました。
そういった視点で以下の動画を見てもらうと、最初に感じた印象とは違う印象を持ち、動画から色々な意図も読み取れるのではないでしょうか。
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インドネシア映画紹介その1:Tabula Rasa
Tabula Rasa (2014年9月公開)
クマンにある独立系ミニシアターKinosaurusで7月に見た映画。You Tubeのトレイラーに惹かれて観たが、個人的には過去に見たインドネシア映画の中でも3本の指に入るくらいよかった(2018年7月現在)。一見、料理映画と紛えるくらい料理のシーンが多く、鑑賞後はインドネシアの国民食のナシ・パダンをむしょうに食べたくなる。しかし内容はインドネシアの多様性を光と影両面から写した素晴らしい映画だ。
(トレイラーは下部にあります。)
ストーリー
主人公のハンツ(Hans)は、パプア州セルイ島出身。サッカー選手を志し、才能に恵まれていたため、ジャカルタのサッカーチームにスカウトされる。近所の子どものヒーローとして、家族や大勢の人に見送られてパプアを飛び立つハンツ。
次のシーンでは、ジャカルタの路上でホームレスの様な格好で、その日暮らしを送っているハンツの姿が映される。足を故障し、チームを解雇され、住まいもの確保も間々ならず電車の線路横で寝起きしするような毎日だった。
ある日、ハンツは自殺をしようと思い立ったのかどうか、線路を見下ろす陸橋に立っていた。自殺は出来ずじまいだったが、お腹を空かして陸橋で寝ていたハンツに声をかけ、家につれて帰ってくれる人が現れる。スマトラ島の名物料理ナシ・パダン(Nasi Padang)レストランを個人経営するマック(Mak)だ。
マックは一食をハンツに与えたが、食べ終わったら出て行こうとするハンツを心配する。次の日の早朝、路上で寝ているハンツに声をかけ食材の買出しに誘うマック。その後、手伝ったことに対して、お金をせびろうとするハンツに出て行けと怒る場面もあるが、最後にはレストランのお手伝いとして家に住まうことを許可するマック。
当初ハンツを住まわすことに難色を示していたウェイターのナスティール(Natsir)とは徐々に打ち解けるが、コックとして働いていたパルマント(Parmanto)はハンツを受け入れない。終いには、レストランの売り上げが上がらないこともあり、パルマントは出て行ってしまう。
人手が足りないことに窮したマックは、ハンツにナシ・パダンの調理法を教えることにする。当初は戸惑うハンツだったが、きちんとした仕事を与えられ、身なりも整い徐々に笑顔も増えてくる。料理をすることに、人の役にたつことに喜びを覚えるハンツとそれを見守るマック。
そんな折、目の前に近代的で大きなナシ・パダンのレストランが新たにオープンする。そのレストランに対抗するためにハンツが出したアイデアが、ナシ・パダンではどちらかというとマイナーな魚の頭の煮込み料理(Gerai Kepala Ikan )を看板メニューにすることであった。それは、マックが最初にハンツを家に連れてきてご馳走した料理であり、マックが過去に亡くした息子の好物でもあった。
解説/感想
ジャカルタとパプアの距離感というと普通の日本人にはあまりピンとこないだろうが、両方ともインドネシアという一つの国に属している。ジャカルタとパプア州都のジャヤプラまでは、直行便でも5時間強。距離では3700キロ程度で、東京~フィリピンの端っこである南部ミンダナオ島ダバオ、と同じ位の距離である。
マレーシアやシンガポールの方がジャカルタ市民には距離的にも、(特に若い教育を受けた世代は)感覚的に近い部分もあるぐらい、パプアは同じ国ながら遠い。パプア州は、2002年に成立し、インドネシアの一部に組み込まれた。(この下りはまたいつか記事にします)
一方で、「ジャワ島の連中にうまい汁を吸われていて貧困率も高い。インドネシアから独立すべきだ」という思想の人も現在も一定数いて、自由パプア運動(インドネシア語: Organisasi Papua Merdeka, (OPM)として活動をしている。
ジャカルタから住む人間の感覚としては、同じ国だけど心理的にも物理的にも遠く、半分は違う国。そんな感覚が一般的じゃないだろうか。
ハンツはそんな遠くからジャカルタにサッカー選手の夢を追って出てきたのだ。お母さんの「そんな遠いところでなくパプアのチームで選手になれるんじゃない」という問いに、「ジャカルタのサッカーチームは様々な面で進んでいるし、そこで成功することが重要なんだ」というハンツの言葉に、日々の生活の中でジャカルタに対して、(特に経済的側面)で羨望の目を持っていたのが伺える。
また、ジャカルタのチームを怪我で解雇された際に「自分はごみの様に扱われた」というハンツの言葉にも、ジャカルタとパプアの距離を推し量ることが出来る。
そんなハンツがホームレス状態になり、窮している時に救いの手を差し伸べたのがマック。彼女も実は元々はスマトラ島パダン出身で、地震で息子を亡くし、再起をかけてジャカルタに出てきた身だった。
ハンツに料理方法を教え始めてから、マックとハンツの仲は心理的にとても近づいていく。それはハンツが最初はマックの事をIbu(年上の女性に対する敬意を持った呼称)と呼んでいたのに、料理を習い始めて少し経つとMa(Mamaの略称。本当のお母さんでなくても近しい間柄の場合使う事がある)と呼び始めることからも伺える。
明るいといえない過去を持った二人をジャカルタで結びつけたのは、インドネシアの国民食とも言える人気を誇るナシ・パダンだった。
夢破れたインドネシア東端パプアの少年と地震で家族を失った過去を持つ西端のパダン人の夫人が、首都ジャカルタの地で国民的人気食のナシ・パダンを作る事を通して心を通わせ、お互いの傷を少し埋め合わせる。
インドネシアの国土の広大さとそれに伴う過酷な現状を映しながらも、多様な人々が交差しながら生きていく様子を描いている。
タイトルのTabula Rasaはラテン語で、「いかなる観念や原理も書き込まれていない白紙の状態」を表す。個々人は人種や宗教などの前に、一個人として白紙であり、原理的には同じものを共有している。そんなことを暗示しつつも、インドネシアの多様性をもある方向から写した、とても後味のいい映画だ。
星5つ ★★★★★
Producer:Sheila Timothy
Director:Adriyanto Dewo
Writer:Tumpal Tampubolon
Cast:Dewi Irawan, Jimmy Kobogau, Yayu Unru, Ozzol Ramdan
Release date: Thursday, September 25 2014
参照
http://catalogue.filmindonesia.or.id/movie/title/lf-t010-14-039453_tabula-rasa
Tabula Rasa (2014) - Official Trailer - RILIS 25 SEPTEMBER 2014
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インドネシア在住:どまぐれモンの自己紹介
アカウントだけ作って長らく放置していたけど、そろそろ始めようかと思います。
簡単に自己紹介
現在30代前半のどまぐれモン(祖母の故郷である福岡県大牟田地方の方言で道を踏み外した人の意)です。
インドネシア共和国・ジャカルタにて、国際交流の仕事をしていました。
僕の活動のキーワードとしては、アジア、インドネシア、イスラム、国際文化交流、サッカーです。
基本的にはこのブログでは、インドネシアをあまり知らない人々にもインドネシアの一側面を理解してもらえるように、かつインドネシア事情を中心とした自分の活動や考えをまとめて発信する場にしつつ、自分の備忘録にもしたい思います。
(アバターの写真は僕の愛猫です。著者は大の猫好きなので、「インドネシア猫歩き」の写真もアップしたいです。)
以下、少々長めの自己紹介。
小中高とサッカーをずっっとやっていました。高校時代は栗鼠のJリーグチームのユースチームに所属し、埼玉県選抜に選ばれるなど、そこそこのレベルで頑張っていましたが、そこではプロには成れないと思い知りもしました。
元々サッカー馬鹿だけにはなりたくなかったので、ユースチームの同級生がほぼ皆サッカー推薦で大学に進学する中、僕は一浪して東京の自分の行きたい、学びたいことがある大学に入学。
サッカー推薦だと大学レベルも選べず、かつ学部もなんちゃらスポーツ学部とかだったりの縛りがあるので嫌でしたね。プロになれないであろう事を悟った中、大学4年間をサッカーに費やすのも、人生の幅が広がらないなぁと感じていました。
大学時代は人生の幅を広げる
大学時には、夏休みなどにアジアをぶらぶらしたり、国際関係のゼミやインカレの勉強会(十大学合同セミナー)に出入りするなど、それまでの自分のサッカーだけの人生から幅を広げようとしていましたね。
高校時代は本当にサッカーの練習と寝るの繰り返しで終わったし、サッカーが人生の全てでした。その世界でしか使われない定規で、自分を図られることにも少々飽き飽きしていたなぁ。
そういった意味で、その時まで知り得なかった世界や人間関係を作れた大学生活は貴重だったし、大学体育会ではサッカーしないと決めた自分の判断は今でも正しかったと感じてます。
(サッカーは、大学時代は他の活動と並行できるよう地元で社会人サッカーしてました。)
以下は十大学合同セミナーの後輩の代のリンクです。
特に大学3回生の時に参加した内閣府主催の「東南アジア青年の船」事業に日本国の代表青年団の一員参加できたのは、色々な意味で大きな影響を人生に与えてくれました。
この事業は、日本とASEAN10カ国の青年計340人程度が、約2ヶ月の間、日本の客船・日本丸に乗って、5カ国(現在は4カ国)を訪問するプログラムです。
船の中では、ディスカッション活動やグループワークなどがあったり、日中の活動や寝食をASEANの青年と共にします。訪問国では、様々な行政・文化施設の訪問と現地の方の家に泊まるホームステイがあり、かなり濃密な2ヶ月です。
(船事業については、この方が詳しく説明してくれているのでご参照までに共有します)
この船事業で仲良くなる青年が、ASEAN10カ国あるのになぜかインドネシア人ばかり。気がつけば自由時間はインドネシア人の青年と一緒に行動ばかりしていました。
彼らのわけ隔てない接し方や、笑顔になぜか惹きつけられた記憶です。
大学院と日系新聞記者時代
この事業を契機に、インドネシアへの興味関心が激増した僕は、大学卒業後、日本の大学院でアジア地域研究(インドネシア研究)を志します。が、一身上の都合で中途退学してしまいました。
その後、紆余曲折を経て、ジャカルタにある日系新聞社にて記者として約2年間務めました。記者時代は週休0.7日位の激務でしたが、一年目から新聞の1面の大きな記事を書かせてもらったり、ジャワ島にあちこち取材に行ったり、2年目にはASEAN会合の取材にクアラルンプールまでいったり、なかなか刺激が多く楽しく仕事していました。
そして、その後昔から興味が深かった国際交流の職場に移りました。
丸々3年間の勤務のうち、市民交流事業や知的交流などを担当。インドネシア中色々行かせてもらいました。
特にイスラム社会との交流事業には個人的に思い入れがあり、主導して色々事業作って運営したりしました。インドネシア中のプサントレン(イスラム寄宿塾)で日本映画の上映かともしましたね。あれは面白かったなぁ。ここら辺の興味が、現在の大学院進学に繋がってます。
現在ジャカルタ在住6年目ですが、いつまでインドネシアにいることになってしまうのか、自分でも戦々恐々としています。
※このブログの内容/記事については個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません。記事の内容は執筆者に帰属します。内容の一部を引用などされたい場合は、メールでご一報ください。